--- 一日が終わったわね、今日も

--- 一日が終わったわね、今日も
彼女がそう言うと連れの女性が黙って頷いた

ウィークデイ 夕刻の喫茶店
ふたりはもう何も話す気になれない
会社勤めももう五年
わずかばかりに余裕もできて
その分ついつい仕事中でも
ほかへと思案をめぐらす機会がふえてくる

シガレットケースからタバコをとり出し
その店のブックマッチで火をつける
二本の細い指にさし挾み
そうして いくぶんけだるそうに煙をはく
その優雅な仕草と端麗な横顔は
きっと男たちの心を掻き乱すだろう
だが そこにいるのは彼女と友だちだけ
ガラスウインドウにうつる街の景色さえ妙に空々しい

--- イリュージョン…か
彼女がそこに煙をはきかけても
街の風景が掻き消えてしまうことはない

彼女さえ望めば相手になる男は何人もいるはずだ
ただどの男も物足りない
たとえどんなにかさみしくても
自分を安売りすることだけはしたくない
自分を大事にしたい 自分を愛していたいだけ

昨夜読み終えた長編小説の主人公は
波瀾万丈の生のなかでしばしば自分を見失いかけた
それを支えたのはヒロイン自身の
自分に忠実でありたいと希求する意力だった
虚構といえばそれまでだが
そんなこころざしの一途さや
自分自身に対する厳しさといったものが
彼女を大いに励まし なぐさめてきた

小説を読み切ってしまうのが惜しくて
いくどもページをさかのぼり同じシーンをなぞった
それでもいつかは終わりがくる
本を閉じて目を瞑ると
ヒロインのものの考え方や決意といったものが
彼女自身のなかに再生していることを発見し
思わず身震いせずにいられなかった

---(それにしても)
それにしても主人公の女性とは境遇も地位も格段にちがう
それよりなによりヒロインには並はずれた才能があった
平々凡々とした生活にある自分のなかの
一体、何にそんな望みを託すことができるだろうか
いや、そうじゃない はたして自分には何ができるのか
自分は何をしたいのか どう生きてみたいのか
そんなことを試したいのだ
試してもみないで絶望していたくはないのだ

いつのまにかすっかり陽が落ちていて
道往く車のヘッドライトが乱舞し
空を覆うネオンサインは勝手気ままな自己主張を繰りかえし ている
人通りもふえたようだ

このままじゃつまらない 何かをはじめたい
新しい自分を発掘したい
小さな決意の芽が徐々にふくらんで確かな茎をのばしていく
いままだ手掛かりはない
それでも予感だけは熱く感じるのだ

--- ねえ、どうする?
--- どうしようか
友人の顔を見つめ
彼女は力強く微笑んだ